黒髪以外の者が排除されるような社会は、ナゼ暮らしにくいのか?

最初に、2017年10月28日付の毎日新聞記事から引用する。

「生まれつき頭髪が茶色いのに、学校から黒く染めるよう強要され不登校になったとして、大阪府羽曳野(はびきの)市の府立懐風館(かいふうかん)高校3年の女子生徒(18)が約220万円の損害賠償を府に求めた訴訟は27日、大阪地裁で第1回口頭弁論が開かれた。生徒側は「黒染めの強要は、生まれつきの身体的特徴を否定し、人格権を侵害する」と主張。府側は「適法だ」と反論しており、生徒指導としてどこまで許されるかが争点になりそうだ。」

地毛の茶髪ですら認めず、黒色にすることを強制する病的な風習は、大昔から現在に至るまで健在なようだ。

世界中の国からお客を招き、2020年にオリンピックを開催しようとする国の実態が海外メディアでも報道され、衝撃を与えている。

東京都知事の小池百合子氏が多様性(ダイバーシティ)と言っていたが、空しく響くだけだ。

金太郎飴になることを求められるのは高校だけではない。

下写真はある会社の入社式風景だ。

写真(入社式の風景)

工業製品ならば均一で安定した品質が求められるだろうが、人間の見かけがこれだけ揃っていると異様である。

髪の色、髪型、スーツの種類・色、アクセサリー、化粧、バッグの形・色、靴にいたるまで、強制されなくても周囲と同じにしようとする習慣が、すっかり根付いている(少なくとも30年前は、ここまで均一化されていなかった)。

就職活動する若者がこのように行動するには訳がある。

「私は、上の言うことには絶対服従し、疑問を持ちません。自分の考えは無く、周囲にひたすら合わせます」と暗にアピールしているのだ。

受け入れる側の採用担当者も、こういう人材の方が安心する。

下手に個性的な人間を採用して後で問題を起こしたら、自分が責任を問われかねないからだ。

この態度を「保守的」などという美しい言葉で表していいのだろうか?

会社だけの話ではない。

日本社会全体が、没個性と自発的隷従を求めている。

北朝鮮の金正恩さんですら、日本の実態を知ったら驚くのではないか?

今は亡き安倍元首相は北朝鮮のミサイル危機をやたら煽っていたが、実は、統制が取れた北朝鮮の一党独裁体制を羨ましがっているのだろう。

社会からの要請を受け、学校教育の現場は教育工場と化している。

金太郎飴の工場である。

与えられた知識を効率よく覚えることが求められ、受け身一辺倒。

ブラック部活も奴隷根性養成のための有効な手段なのだ。

がんじがらめの校則、有無を言わせぬ日の丸・君が代強制も、安定した工業製品を生み出すための工程に過ぎない。

管理・指導する学校の先生も教育委員会も、人間性を失っている。

こんな環境で仕事をしていてやりがいを感じているのだろうか?

製造工程で品質不良と判断された製品は使い物にならないのではねられ、廃棄される。

ドロップアウトした生徒に対する世間の目が冷たいのは、このせいだ。

しかし、扱っているのはモノではなく人間である。

教育工場の出荷検査に合格した人間よりも、不合格になった人間の方が劣っていることにはならない。判断基準自体を疑い修正しなければならないのだが、戦後70年以上もの間、教育システムには実質的に進歩がない。

これは、人間の尊厳に対する冒涜であり、驚くべき怠慢と言わざるを得ない。

長年に渡り、このような教育制度を推進してきた自民党は、「自由」「民主」という党名を返上しなければならない。

図(各政党・政治家の立ち位置) 出典:週刊金曜日

今回、生まれつき茶髪の生徒に黒染めを強制した件で、大阪府側は訴えられているが、話し合いにはまるで応じようともしない。

他でもやっているから自分たちは間違っていないと思い込んでいるのだ。

みんなと同じことをやっているから自分は正しい・安心という態度は思考停止であり、取り返しのつかない事態を引き起こす原因となる(原子力村が暴走し、福島原発事故が発生したのと同じ原理である)。

何の疑問も持たずに惰性に流されていても、閉塞感が解消されることはない。

没個性や隷従を当たり前だと考えている日本社会は病気であると自覚しなければならない。

以上

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