安倍政権時代のメディアに対する圧力
最初に、安倍政権時代のメディアに対する圧力に関して、具体例をいくつか挙げます。
1)
元通産官僚の古賀茂明さんは、テレビ番組で安倍政権への批判を繰り広げたために、官邸から圧力を受けたテレビ局上層部が出演とりやめにした。
2)
テレビ朝日の幹部が自民党から呼び出されて、古賀さんの番組発言について文句を言われた。放送免許はく奪をほのめかされたので、テレビ朝日は謝罪するしかなかった。
3)
元朝日新聞記者の植村隆さんは、戦時中の性奴隷被害者(いわゆる従軍慰安婦)の報道に携わっていたが、反動右翼勢力により脅迫を受けている。脅迫は彼の家族に対しても行われている。安倍総理も、性奴隷報道は日本の国際的評判を落としているとして、あからさまな批判を繰り広げている。
4)
2014年末の総選挙前に、自民党はテレビ局各社に対して「公平な」報道を要求する文書を送り付けた。この場合の「公平」とは、自民党に不利な情報は隠し有利な情報のみを報道する、という意味である。前代未聞の脅しである。
5)
自民党の報道への圧力は日本のメディアに留まらない。ドイツの報道機関も、安倍官邸の意を受けた外務省から干渉行為をされている。旧日本軍の性奴隷問題を扱わないように言われたのだ。
6)
読売新聞は英語版の記事で長年に渡り「sex slave」(性奴隷)という言葉を使ってきたが、今後は使わないと宣言し謝罪した。
7)
安倍総理のお友達である籾井さんは自民党政権によりNHKに送り込まれ、会長の椅子に収まった。そして、自民党政権のための大本営発表を徹底するように職員へ指示した。
自発的隷従という日本人の怠惰
上記のような圧力を受けるだけではなく、反撃する行動も見られるようになっています。
例えば・・・
A)
古賀茂明さんはニューヨークタイムズ紙に寄稿し、安倍政権の報道規制を批判した。
B)
世界中の数百人という学者が、安倍政権の歴史改竄と報道抑圧に対して批判の声を上げた。
C)
元朝日新聞記者の植村さんは、彼の報道を捏造と断定した者たちを名誉棄損で提訴した。
「安倍総理の報道抑圧に対して怒っている人が、今や日本では多数派だ」なんて記事を載せているサイトもあります。↓
「In Japan, anger at Shinzo Abe’s heavy hand on press turns mainstream」
実際はどうなんでしょうね?
ジャーナリズムが死滅しつつある現状に対して、日本人の多くは危機感を持っているのでしょうか?
上記英文サイトの記事タイトルとは異なり、問題意識を持っている日本人はまだまだ少数派のような気がします(おそらく一割もいない)。
自民党政権がアメリカに隷属しているのと同じように、日本人の多数は自民党政権に対して自発的隷従しているだけではないでしょうか?
自分に都合の悪い事実は見ない、聞かない。
政府が喧伝する心地よいウソに逃げ込む。
周囲の雰囲気に流されるだけで自分の意見を持たない、言わない。
自分の頭で考え判断しない。
残念ですが、このような凡庸な精神性が長い間日本を支配してきました。
独裁者にとって支配し易い国の一つが日本なのです。
「猫に小判」、「日本人に民主主義」とも言えましょう。
総理大臣の安倍晋三さんは独裁的だと批判されていましたが、日本人にふさわしいリーダーだったのです。
戦前回帰の軍国主義政策を推し進めても、格差拡大で庶民の生活が苦しくなっても、じっと我慢してるのが大多数の日本人だと思います。
ダマされないために、どうすればいいか?
権力者にダマされ続けて取り返しのつかない事態を招きたくなければ、自発的隷従などという情けない状態から脱する努力が必要です。
そのうち誰かが何とかしてくれることはありません。
国民一人一人が考え主張すべきです。
面倒くさがってはいけません。
第二次世界大戦前に映画監督・脚本家として活躍した伊丹万作氏(エッセイスト・俳優・映画監督である伊丹十三氏の父)が、『映画春秋』創刊号(昭和二十一年八月)に「戦争責任者の問題」と題した文章を書いています。
リンクを以下に貼ります。約70年前に書かれたものです。
上リンク先の文章から一部を引用して、この記事を終わりにしたいと思います。
引用始め:
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だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまったくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
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引用終り:
以上