著名人だったり、社会的に責任が重い立場でありながら、無教養で傍若無人な暴言を繰り返す人間が跳梁跋扈している。その中でも、この男の暴言は、その頻度や内容の悪質さにおいて、他の追随を許さないだろう。
石原慎太郎氏の暴言例を一つ挙げよう。
1999年9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後の記者会見での発言。
「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」
「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」
上記の発言が問題発言として報道され、知的障害者団体から抗議されたが、石原氏は「文学者としての表現」だと意味不明な言い訳をしている。どんなに非難されても自説を曲げず、強気で反論する。自分の暴言が政治家としての辞職につながったことはないようだ。つまり、日本国民の多数派が彼の暴言に共感し、「強い」リーダーとしての姿勢に惹かれていたのである。この事実自体が、国際的な恥さらしである。
さて、2016年7月26日に神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起こった大量殺害事件。植松聖容疑者が容疑者として逮捕されたが、植松容疑者とみられる男が大島理森衆院議長に渡そうとしていた手紙の詳細が公表された。2016年7月26日付の毎日新聞に掲載されている。
上記リンク先から、一部を引用する。
「私は障害者総勢470名を抹殺することができます。」
「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。」
「障害者は不幸を作ることしかできません。」
植松聖容疑者の主張は、石原慎太郎元東京都知事と本質的に同一だ。自分よりも立場が弱く、気に入らない人間を社会から抹殺してやる、ということなのだ。その一方で、自分より立場が強い人間に対しては卑屈である。「衆議院議長大島理森様」「安倍晋三様」などと、権力者に媚びを売りつつ、自己の正当化に励んでいる。卑怯で、臆病で、しかも視野狭窄だ。石原慎太郎氏と、何か違うところがあるなら教えて欲しい。
石原慎太郎氏の暴言に心酔し、彼を支持してきた愚かな有権者が、日本社会の精神を腐敗・堕落させてきたことは紛れもない事実だ。「やはり、石原慎太郎のような人間が総理大臣にならないと日本は良くならない」と公言するファンは多い。私も、そういう人間を具体的に知っている。人を見る目が無いのである。
日本社会の精神が腐敗・堕落した結果、悲惨な事件・事故が多数し、暮らし難い社会が実現してしまった。相模原の障がい者大量殺害事件は戦後最悪の規模と言われているが、起こるべくして起こった事件であろう。容疑者一人を血祭りにあげたり、対症療法的な対策だけを行っても駄目である。
植松聖容疑者は大量殺害事件を起こす運命をもって、この世に生を受けたのではない。彼を大量殺人に駆り立てた大きな要因は、日本社会の病巣にある。容疑者の責任を厳しく問うと同時に、我々一人一人が、愚かな権力者を安易に崇拝していないか自省が必要だろう。
下の人物は、石原慎太郎氏と強く共感し合っている。喜んで支持している人間は、特に注意が必要だ。石原氏と同じく、国際的な恥さらし人物である。
以上