そのあまりに杜撰で野蛮な刑事司法システムゆえ、「日本は中世の国か?」と国際社会が揶揄するようになってから久しい。野蛮国日本を象徴する冤罪事例を新聞記事で見つけた。
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「検察、有罪立証せず 「自然発火」になお反論 再審結審」
1995年、大阪市東住吉区の民家火災で小学6年の女児が焼死したが、朴龍晧さんは殺人などの罪で無期懲役が確定し、服役していた。その再審初公判が、2016年4月28日に行われ、即日結審した。裁判所は自然発火の可能性を認定し、検察は有罪主張を断念した。無罪判決は2016年8月10日に言い渡される予定だ。
朴さんは、違法な取り調べで自白させられたと主張してきたが、検察側は認めていない。そればかりか、「取調官による暴行や脅迫は認められない。自白は自発的で、任意性に何らの疑義もない」と断言している。何の強制もされずに、やってもいない犯罪を自発的に認める人はいない。この事件を担当した検察官は、嘘をついても良心の呵責を感じることがない特技を持っているのだろう。
その一方で検察側は、裁判所に提出した有罪を裏付ける証拠には信用性が無いと自ら認めている。自分のしている仕事にプライドを持っていないのだろうか?謝罪もしない厚顔無恥な態度は、あまりに無神経である。冤罪で20年以上もの時間を奪われた被害者に対して申し訳ないという気持ちがあるのだろうか?ある訳がない。もしも罪悪感を感じる能力を持っているならば、このような冤罪事件を起こすはずがないのである。仕事の進め方に慎重さを欠く、という次元ではない。官僚組織の中で良心が分散・希釈された結果、人権蹂躙が起きたのである。
冤罪被害に遭った朴さんは刑務所に長年服役している。検察のデタラメな言い分を鵜呑みにして無期懲役判決を言い渡した裁判官にも大きな責任がある。再発防止には、原因の検証が欠かせないが、地道な検証を行う気持ちはあるのか?
警察の発表内容をそのまま垂れ流して無実の人を犯人に仕立て上げたマスコミも責めを負うべきである。組織の中での良心分散化・希釈化は、警察・検察だけの事象ではない。権力がやっていることに問題意識を持てないならば、報道機関に存在価値は無い。
報道を受け取る側の一般国民はどうだろうか?犯罪者を捕まえるためならば、多少の冤罪は起こっても仕方がないと考えてないだろうか?ほとんどの日本国民が冤罪事件に無関心なのは事実だ。自分が痛い目に合わないとダメでは、想像力が無さ過ぎるだろう。冤罪事案に無関心な一方で、8割以上の国民が残虐な死刑制度に賛成している。
安保法制(=戦争法)は憲法違反だが、自分に火の粉が降りかかるかもしれないという恐怖・心配が多くの人間を反対運動に駆り立てた。冤罪事件も死刑制度も人権侵害の違憲行為なのだが、多くの国民は無関心だ。自分は巻き込まれない、自分は大丈夫という根拠のない自信があるのだろうか?
警察・検察・裁判所・マスコミの堕落、さらには国民の無関心にも支えられて、今後しばらくは「中世の国、日本」が続きそうである。
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以上