例えば軍事独裁政権が支配する国では、国民が政治家を選べない。そういう国の国民は生活が苦しくなった場合、政府への抗議を行うことがあるが、軍隊や警察の力で鎮圧されてしまう。虐殺されたり、逮捕、監禁、拷問を受けることもある。従って、自分たちの要求を実現できなかったからといって、気概がないと責めるのは酷だろう。
しかし幸いにも今の日本では、国民の一人一人に政治家を選ぶ権利(落選させる権利)が与えられている。一億人近い有権者が、たかだか数百人の国会議員を選ぶのだ。権力に対して、国民は圧倒的に有利な立場にある。しかし、生活のあらゆる場面で搾取構造が蔓延し、貧困層が増え続けているというのに、無能な為政者を長年に渡って信任し続けている。投票所に足を運び、自分の責任で一票を投じるならまだしも、約半分の有権者は、大切な権利を行使する意思すら持たない。地方選挙ではさらに投票率が低い。
これは政治的無関などというものですらなく、「どんなに苦しくても我慢しますから好きなように統治してください。全てお任せします。選挙権なんて面倒くさいものは要りません。」という意思表示ではあるまいか?
民主主義制度があまりにも重荷であるため、権利の行使を放棄してしまう。怠惰な姿勢で権力者に隷従する姿がそこにある。内に秘めた怒りがあっても、勇気がないからそれを表出させられないならば、臆病ということになるが、そんなレベルではなく、一個人としての意思を完全に失っているのだ。自分の頭で考えず、自分で判断せず、自分の責任で行動しない。行動内容を決めるときに、周囲の空気、前例や上からの指示に頼り切ってしまう人間とは、いったい何なのか?人間としての尊厳を捨て去った究極の悪徳といえまいか?
このような自発的隷従に陥った人間が、再び自由、自発性、主体性、問題意識、批判力を取り戻すことは困難だ。しかし彼らに悲観的なところはほとんど見られない。むしろ、自発的隷従状態にいることで安心し、自らその立場を選択したと言わんばかりである。
自発的隷従を身に付けた者たちの親、教師、上司たちも、自発的隷従という生き方を身に付け実践してきたのだ。権力者のいかなる横暴にもひたすら耐えることが最良の選択だと、根拠もなくひたすら信じている。もしも、直接的な指示が得られない場合は、権力者の本音や意向を忖度して動く。
この病的な習性や信念に疑問を持つ者は白い目で見られ、日本という社会では居心地が悪くなることを覚悟しなければならない。従って、クラゲのように流されているのが一番楽だということになる。このような思考停止状態は、政治的独裁者を生む土壌となる。
近代社会にあるまじき怠惰な姿勢を持った人間にとって、自由はあまりに荷が重い。自由を獲得しようという意思すらない。いかなる意味においても勇気を喪失しているのだ。
自発的に隷従している者たちは活力を喪失し、卑屈で無気力なので、偉業を成し遂げることは出来ない。搾取されても反抗せず、追い詰められて自ら命を絶つ。権力者に言われるがまま、徴兵に応じて無駄死にする。権力者の判断ミスで原発大事故が起こり被害に遭っても怒らず、再発防止も求めない。自分自身を粗末にする真の奴隷の姿がそこにある。
統治権力者たちにとって、このような怠惰な国民は誠に都合が良い。民主主義という制度を形骸化させ、機能不全にできれば独裁のチャンスが広がる。哀れな羊の群れを飼い慣らし、情報弱者にするための策略に余念がないのは、自発的隷従の固定化を願っているからに他ならない。
民主主義とは手間暇がかかり面倒くさい制度ではある。他人任せではダメだし、学習能力が要求される。将来、国として再び取り返しのつかない事態を招かないためにも、国民に課せられた重い責任を自覚せねばならない。
以上