これは痛ましい・・生まれたばかりの赤ん坊が病院で見殺しにされたのはナゼか?

 何ともやり切れない気持ちになる記事をネット上で見つけました。小児外科医の松永正訓氏が2017年11月5日付で投稿なさった記事のリンクを以下に記します。

奇形の顔「受け入れられない」…家族が手術拒否、ミルク飲めず赤ちゃん餓死

 記事の前半部分だけを引用させて頂きます。

引用始め
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 医師として関わってきた多くの子どもの中には、忘れられない子が何人もいます。その中で、最悪の記憶として残っている赤ちゃんがいます。前回のコラムで、障害児の受容は簡単ではないと言いましたが、それが「死」という形になった子がいました。

 産科から小児外科に連絡が来ました。先天性食道閉鎖症の赤ちゃんが生まれたのです。食道閉鎖とは文字通り食道が途中で閉じている先天奇形です。当然のことながら、ミルクは一滴も飲めませんから、生まれてすぐに手術をする必要があります。食道は胸の中にありますので、赤ちゃんの胸を開く、難易度の高い手術です。

 そして、赤ちゃんの奇形は食道閉鎖だけではありませんでした。 口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)という奇形があったのです。口唇裂とは上唇が鼻まで裂けていることです。口蓋裂とは口腔と鼻腔を隔てている上あごが裂けていて、口と鼻の中がつながっている状態です。口唇口蓋裂は、形成外科の先生が何度か手術をすることで、最終的には機能だけでなく、美容の面でもきれいに治すことができます。

 私は赤ちゃんの家族に食道閉鎖の説明をし、手術承諾書をもらおうとしました。ところが、家族は手術を拒否しました。赤ちゃんの顔を受け入れられないと言うのです。私は驚き慌てて、どうしても手術が必要なこと、時間の猶予がないことを懸命に説明しました。ところが家族の態度は頑として変わりません。

 何とかしないと大変なことになります。とにかく時間がない。産科の先生たちを交えて繰り返し説得しても、効果はありませんでした。私は最後の手段として、児童相談所(児相)に通報しました。児相の職員たちは、聞いたことのない病名にかなり戸惑っている様子でしたが、その日のうちに、3人の職員が病院を訪れてくれました。私は両親の親権を制限してもらい、その間に手術をしようと考えたのでした。

 児相の職員と赤ちゃんの家族で話し合いがもたれました。私はその話し合いが終わるのを、ジリジリしながら会議室の前で待ちました。

 話し合いは不調に終わりました。児相の説得も失敗したのです。では、「親権の制限はできますか」と職員に尋ねると、彼らは首を横に振って「あとは先生たちで解決してください」と言って病院を去りました。
(以下略)


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引用終わり

 この後、家族は面会にも来なくなり、点滴しか受けられない赤ちゃんは次第に衰弱し、最終的には餓死したとのことです。記事を投稿なさった小児外科医の先生は、今後、病院内で話し合い、問題意識を広げていく必要があると書いています。しかしながら、この問題は病院だけで解決できるとも思えないので、私はもう少し広げて考えたいと思います。

 赤ちゃんの家族側の問題を以下に挙げます。私の想像も含みます。

・手術で対応可能と説明されても同意しなかった。
・先天的奇形という事実と向き合わなかった。
・その他大勢と異なる少数派に自分たちがなることを拒否した。
・自分たちの赤ん坊の立場で考えようとせず、面倒事から逃げた。
・手術をしなければ死ぬと分かっていても、それで構わないと考えた。共感力の欠如。

 3人で来院した児童相談所職員の問題は下記のとおりです。私の想像も含みます。

・保護者が手術への同意を拒否しているため、乳児の生命の安全確保のために緊急性があるにも関わらず、親権停止という判断をしなかった。
・なぜ親権停止できないのか、納得できる説明を病院側にしなかった。
・何の判断も対処もせず、病院側へ問題を丸投げした。

 赤ちゃんの家族からも児童相談所からも背を向けられてしまったら、高度の医療技術を持つ医者でもなす術が無くなります。親権は赤ちゃんの保護者が持っている以上、承諾なしに勝手に手術はできないからです。赤ちゃんの餓死を見守るしかなかった病院スタッフの気持ちは言葉で表現できるものではないと思います。

 亡くなった赤ちゃんは生き返りません。生きている人間にできることは、赤ん坊の死を無駄にせず、再発を防止することです。病院という狭い組織だけに問題を押し付けても、同じことが繰り返されるでしょう。関係する人間全員が問題から逃げ出さず、解決に向けて努力しなければなりません。目先の自分の損得しか考えない態度、言い訳ばかりする安易な姿勢は、いざという時にマイナスに働きます。しわ寄せは全て、立場の弱い者に向かいます。今回の事例では、赤ん坊の死という最悪の結果をもたらしたのです。

 どんなに立派な技術や知識をもっていても、それを生かす力がなければ無能と同じです。知識や技術は道具であり、社会生活を営む上で避けることが出来ない問題を解決するために使わねばなりません。哲学も信念も持たず、ただ厄介事から逃げたいという姿勢では、知識を生かしようがありません。見捨てるという判断をした家族や児童相談所を弁護しても、意味がありません。この問題は、亡くなった赤ちゃんの視点で考えねばなりません。

 今回取り上げたケースでは、目の前の新生児に必要な手術を受けさせて救うことが物理的には可能でした。しかし、それを実現させるための知恵と勇気が関係者に足りなかったのです。担当した小児外科医の先生は深い問題意識をお持ちのようですが、それ以外の関係者はどうでしょうか?後悔の一つでもしていれば、まだ救いがありますが、何事もなかったように忙しい日常生活に逃げ込むのであれば、再び似たような間違いを犯すことになるでしょう。

 「どうして助けてくれなかったの・・・?」 亡くなった赤ん坊の問い掛けから、決して逃げてはならないと思います。

以上

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