【教育勅語の礼賛、銃剣道の導入・・】戦前回帰の妄想が社会を息苦しくする。閉塞感を打開するヒントを紹介。

授業中の風景

 知識を詰め込むだけの教育ほど、人間の精神を疲弊させるものはないと思う。私の学生時代を振り返ってみても、ほとんどは退屈で苦痛の思い出しかない。いちばんツラかった教科をあえて挙げるならば、それは歴史である。まるでロボットのような教師が時系列に無味乾燥な事実を並べていくだけ・・・。授業は睡魔との闘いであり、試験前でも教科書を読み直す気にもなれず、落第点を取らないような対策をするだけで精一杯であった。

 歴史だけではない。受験に関わる他の主要教科を担当する先生方は皆、一生懸命に生徒へ知識を授けようとしていたが、私の知的好奇心を満たすものは皆無であった。偏差値を上げて受験戦争に勝てば他人より良い人生が拓けるという幻想が存在しなければ、苦痛に耐えつつ真面目に取り組むことなどしなかっただろう。

 大学に入学して他の学生を観察してみると、廃人同然とは言わないが、気力も元気も知的好奇心も失った者たちで溢れていた。私自身理科系だったが大学の授業のほとんどには興味が持てず、自分が面白そうだと思える本を自分で見つけ出し、それらを自主的に読むことに多くの時間を費やしていた。

 先ほど、無味乾燥な歴史の授業を悪く言ったが、すべての生徒が私と同じ考えを持っていた訳ではない。「ああ、歴史の教科書を読むのは楽しいなあ。」なんてセリフを言っている者もいたのだ。彼は、私が感じていた苦痛を全く感じていないようだった。彼はいわゆる秀才であり、東大に現役で合格し、卒業後は官僚になった。

 教育、授業、学習といったものは、こんなにもツマラナイものなのか?と思っていた頃、本屋で偶然「シュタイナー教育を考える」(子安美知子著)という背表紙を見つけた。この教育哲学はドイツが発祥のようだ。

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 本著を二十数年ぶりに読み返してみた。その原理・目的や考え方、実践を以下に列挙する。

・「子どもが、自分で自分をしっかりとらえ、一番深い内部の欲求から、自覚的に行動すること」を教育目標としている。
・「成人して、世の中へ出ていくとき、外の権威に頼ったり、世の中の趨勢に左右されたりしないで、自分自身の内部で考え、その考えたことには自己の感情がこもっており、しかも、その考えたことを実行できる」状態を自由という。その自由へ向けて教育を行う。
・小学生が受ける生活科の目的は、「人間によって作り出された世界を、単なる傍観者としてではなく、直接肌で強く実感すること」である。
・最初から、「円の面積は半径の二乗×3.14なんだよ」と言ってしまうのではなく、まず自分で試行錯誤し見当をつけてみる過程を必ず踏む。
・画一ではなく個性、受け身ではなく能動、手本をまねるのではなく創造的であることを重視する。
・決まった答えがない発問をしたり、困難な状況に直面しながらもゆっくり時間を掛けながら解決に進んでいくやり方ならば、知識自体は忘れても子どもの力になる。
・先生自身が、身体そのものや生命体、感情体の固化している状態を動かそうという自覚をもって子どもの授業にあたる。

 シュタイナー教育が完全無欠だとか、一番優れている、などと言うつもりはない。試行錯誤しながら進歩を続けているのだと思う。しかし、シュタイナー教育を実践している学校が二十数年前は全世界に数百校だったのが、今は千校を超えている。ゆっくりだが、着実に増えているということは、徐々にその価値が人類社会に認められつつあるということだろう。

 ドイツでも、シュタイナー教育を実践しているのは、多くの学校のうちの一部に過ぎない。しかし、このような人間の根源に目を向けた教育哲学と実践を生み出すドイツという国には敬意を払わざるを得ない。

「他国の原発事故を教訓として原発全廃を決めた国」
「自国の加害者としての歴史的側面を重視し、失敗を繰り返さないように心掛けている国」

 これだけを見ても、教育の役割の大きさを認めないわけにはいかない。一方、日本はどうであろうか?

「自国で原発事故を起こしても現実を直視せず、事実を隠蔽し、同じ過ちを繰り返す国」
「自国の被害者としての歴史的側面には目を向けるが、加害者としての事実は感情的に拒否し、そればかりか迷惑をかけた諸外国を侮蔑し、国際的信用を失っている国」

 形だけの民主主義は存在するが実質機能せず、お任せ民主主義が根付いている。苦労知らずの愚かな人間を権力者として選び、社会の閉塞状況を生んでいる。立ち止まって自分の頭で考えることを止めてしまった多くの日本国民は、精神を疲弊させるだけの無味乾燥な詰め込み教育の犠牲者ではないだろうか?本当に、このままで良いのだろうか?

 下写真は塚本幼稚園の子どもたちだが、彼らの受けている教育は決して特殊ではなく、日本社会の欠陥を象徴していると思う。他人事ではないのだ。



 日本人は、歴史上の失敗から学ぶことができない民族だというのは国際社会の評価として定着しているが、それを一層強固にしたのが、下写真に代表される政治家たちだ。実際に、教育勅語の価値を認める閣議決定までしているのだから救いようが無い。個人を尊重せず、権力者のために命を投げ出せ、などという考えに賛同するマゾヒストが日本では多数派を占めるのだろうか?大問題にならないのが本当に不思議である。

写真(教育勅語を取り戻すべきと発言する稲田防衛大臣)

 銃剣道という人殺しの手段を、学校教育で教えようとする動きも見られる。進歩とは真逆。戦前回帰の妄想にとらわれている反動右翼政治家を主流派にしてはならない。

写真(銃剣による刺殺場面)

 哲学がなく、人間の根源に目を向けることもない。戦前の教育を戦後も続けてきてしまった結果、日本社会はひどい閉塞感に悩まされている。下記のような評価をされても反論できまい。

 話を元に戻そう。
 
 教育制度を変えても、その効果が表れるのには何年も何十年もかかる。本記事で紹介したシュタイナー教育の哲学が、今すぐ日本社会に受け入れられるとも思わない。しかし、日本社会の「常識」が決して万能でないことを知るためにも、一読の価値はあると考える。

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