自民党の名だたる歴代内閣が望んでも成し遂げられなかった様々な立法や施策を、安倍政権は次から次へと実現している。これは、驚くべきことではないか?
上一覧表のうち、一番下の憲法改正はこれからだが、「2020年の東京オリンピックまでには成し遂げる」と意欲満々だ。特に憲法9条の改正は、自民党結党以来の野望らしい。
さらに、2017年5月19日の衆議院法務委員会では、共謀罪法案が強行採決された。
国会審議には真面目に応じず、強行採決を連発し、立憲主義も踏みにじっているとはいえ、数々の「実績」を成し遂げてきたことは事実だ。安倍政権は、自民党歴代政権の中でも突出して「強く」、かつ、「安定」しているように見える。言論の自由を奪い、自滅の戦争に突き進んだ戦前へ回帰する政策は着実に実を結んでいる。しかも、国民の反発は大したことがない。
このような摩訶不思議な現象がどうして起きるのか?その原因を考えてみたい。
1)小選挙区制の導入と政党助成金の導入
かつての自民党政治では、中選挙区制度の下、派閥のボスが力を持ち、政策立案や予算編成では族議員が「活躍」していた。しかし、ロッキード事件やリクルート事件などを契機として、「政治とカネ」の問題に注目が集まり、1990年代以降は「政治改革」が求められるようになった。
サービス合戦に終始しがちな中選挙区制の利権政治と決別し、政治家がカネ集めに労力を費やすことなく、政策本位の政治を実現するために、小選挙区制の導入、政治資金規正法の強化や政党助成金の導入などを柱とする施策が相次いで実施された。
その結果、自民党においては、小選挙区での公認権や政党助成金の配分権を握る党の執行部に権力が集中し、党内においては異論を述べる者がいなくなった。しかも、派閥の影響力が弱まったため、政権と自民党の間の緊張感は無くなり、首相の留守を預かる党幹事長も、事実上首相の配下に置かれることになった。
2)首相官邸に権力を集中させた。
官僚のスキャンダルなどを機に、官僚まかせの政治から脱却した「政治主導」が求められるようになった。そのため、「経済財政諮問会議」の設置や「内閣人事局」の設立など、数々の改革が実施され、首相官邸への権力集中が図られた。政策立案については、官邸が選んだ有識者会議によって政策の方向性を確定させた上で、その理念に沿って政策立案をする意思のある官僚を登用することができるようになった。
3)安倍晋三氏が極右色を出しているので、自民党内がまとまりやすい。
安倍政権の多くが日本会議などの反動右翼集団に属しているが、これは現在の自民党の総意を反映しているとは言えない。しかし、リベラル色の強い民進党に対抗するためには、安倍総理をはじめとして自民党全体がは右側に寄っていた方がまとまり易い、という意識が党内で根強い。
4)政権交代可能な野党が存在しない。
権限集中型「トップダウン」の政治制度は独裁を生みやすい。もしも政権交代可能な二大政党間でオープンな政策論争が交わされ、一定の頻度で政権交代が可能という緊張感があれば、それが暴走を食い止める働きをしたであろう。
しかし、政権交代の可能性を失った瞬間、権限集中システムの欠点が露わになる。野党が弱いと国会は政権監視の機能を十分に果たせないからだ。
上記1)~4)の原因が重なったことが不幸の原因である。貧弱な野党では政権批判の機能を果たせない。与党内でも執行部に対する批判を口にできない。官邸に人事権を握られている高級官僚たちも、政権の意向には大人しく従わざるを得ない。これでは安倍さんでなくとも暴走して当然ではないか?
・政権交代可能な状態にすることが重要
安倍政権の暴走を止めるために一番大切なことは、政権交代可能な強力な野党を作ることである。野党が、政権担当能力を持つ政党として有権者の信頼を得られるようにならなければ、自民党のやりたい放題は続く。
野党が自民党に対抗するためには、野党勢力の結集も重要だが、、民進党や他の野党は、まず個々の議員の選挙基盤をしっかり固める必要がある。
カギを握るのは、最大勢力の無党派層と言われる人たちだ。無党派の多くは、選挙に行かない人でもある。
この棄権者の多さが、自民公明連立政権の組織票を生かしてきたのだ。棄権者たちが目覚めない限り、安倍政権は安泰である。逆に、彼らが政治意識に目覚めたら、自公政権はひとたまりもない。だからこそ、安倍政権は歴代のどの政権よりも、マスコミの懐柔・統制に神経を尖らせてきた。
「報道する者は公平・中立を心掛けろ」と通達を出し、権力側に都合の良い報道を要求してきた。詳しくは、下記リンク先記事を参照して頂きたい。
「公平・中立を心掛けろ」=「つべこべ言うな!」だと知ってた?その理由を解説。
【政権批判をする司会者は始末される!】イギリスのガーディアン紙が、日本における報道の危機に言及
・メディアの役割が重要
弱小メディアは頑張っているところもあるが、大手のテレビ局や新聞社は素直なだけが取り柄の優等生の集まりなので、大した圧力が無くても簡単に懐柔され、忖度報道に走ってしまう。権力の監視役を放棄したら、もはやジャーナリズムとは言えない。政府の広報誌に堕したら、有権者の判断を誤らせることにつながり取り返しがつかなくなる、という自覚が無い。
政府を正しく批判し、有権者に問題意識を持たせなければ、選挙で正しい判断ができない。つまり、実質、選挙権が奪われているのと同じである。戦前の過ちを再び繰り返す可能性があるのだ。
・教育の本来の役割とは?
正しい判断ができる有権者を育てるためには、教育の役割も重要だ。日本では長らく、単に知識を授けて、覚えたかどうかチェックするだけの教育が行われてきた。上役の言うことは何でも素直に受け入れ、議論もせず、他人の目を気にして空気ばかりを読もうとする人間を大量生産してきたのだ。本来、学校教育の目的の一つは、健全な批判能力を養うことである。健全な批判能力とは、弱いものをイジメるということではない。自分より権力がある者の行動や発言を監視し、必要とあらば冷静に批判する勇気を持つということだ。
しかし、政府からすれば、批判力のある人間が育っては困るのだ。だからこそ、教育へ介入をしたがる。日の丸・君が代の強制は、問題意識の無い従順な人間であるかどうかチェックするための手段なのだ。日本全国の学校で教育勅語を唱和させ、「安倍総理ガンバレ、安倍総理ガンバレ」と生徒に言わせたいのである。安倍総理にとって北朝鮮の独裁国家は理想であり、目指すべき目標であろう。
最後に:
民主主義国家に住む日本国民はもっともっと、ヤカマシイ有権者になるべきなのだ。マスコミが悪い、教育制度が悪いと言っていても始まらない。各自が出来ることをすべきだろう。簡単にダマされるような大人しい子羊ばかりなら、安倍政権の暴走は当分続くことになる。
「一国の政治というものは、国民を映し出す鏡にすぎません。政治が国民のレベルより進みすぎている場合には、必ずや国民のレベルまでひきずり下ろされます。反対に、政治のほうが国民より遅れているなら、政治のレベルは徐々に上がっていくでしょう。国がどんな法律や政治をもっているか、そこに国民の質が如実に反映されているさまは、見ていて面白いほどです。これは水が低きにつくような、ごく自然のなりゆきなのです。りっぱな国民にはりっぱな政治、無知で腐敗した国民には腐りはてた政治しかありえないのです。」
(出典:「スマイルズの『自助論』エッセンス版」P17)
以上